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現在位置: > 朝日新聞デジタル > 社説○社説2012年5月5日(土)付「原発ゼロ」社会:上 不信の根を見つめ直せ 北海道電力・泊原発3号機が5日、定期検査のため運転を止める。これで、国内すべての原発が停止する。
世界で3番目に原発の多かった日本が、世界最速で「原発ゼロ」状態に入る。
脱原発への民意を政治がしっかり受けとめた結果であれば、歓迎すべきことだ。
しかし実態は、政府の再稼働ありきの姿勢が原発周辺の自治体をはじめとする世論の強い反発を受け、先が見えない中での原発ゼロである。
不信の連鎖がそこにある。
■広がる懸念の矛先
福島第一原発の事故は、私たちの社会が前提とする「信頼性」を根底から揺さぶった。
水蒸気爆発やベントをめぐる混乱、炉心溶融(メルトダウン)に関するあいまいな説明、放射性物質の拡散を予測するSPEEDIの情報開示や避難指示の遅れ——。
事故直後からの迷走は、原発を推進してきた組織と人々が、事故への備えという基本的な能力に著しく欠けていた事実をあらわにした。
北海道電力・泊原発3号機が5日、定期検査のため運転を止める。これで、国内すべての原発が停止する。
世界で3番目に原発の多かった日本が、世界最速で「原発ゼロ」状態に入る。
脱原発への民意を政治がしっかり受けとめた結果であれば、歓迎すべきことだ。
しかし実態は、政府の再稼働ありきの姿勢が原発周辺の自治体をはじめとする世論の強い反発を受け、先が見えない中での原発ゼロである。
不信の連鎖がそこにある。
■広がる懸念の矛先
福島第一原発の事故は、私たちの社会が前提とする「信頼性」を根底から揺さぶった。
水蒸気爆発やベントをめぐる混乱、炉心溶融(メルトダウン)に関するあいまいな説明、放射性物質の拡散を予測するSPEEDIの情報開示や避難指示の遅れ——。
事故直後からの迷走は、原発を推進してきた組織と人々が、事故への備えという基本的な能力に著しく欠けていた事実をあらわにした。
なにより大きかったのは、自分たちに都合の悪い情報は隠そうとしている、という疑念を広げたことだ。
その矛先は、被曝(ひばく)によって身体的な安全が脅かされるというリアルな危機感のなか、電力会社や政治のみならず、行政、科学者・専門家、財界、マスメディアと、既存の体制そのものへと増幅していった。
原発事故は、信頼を基盤とすべき社会を「不信の巣」へと変えたのだ。
ところが、既存の体制はその根深さをくみとれていない。
象徴が再稼働問題だ。
■ゼロベースで考える
国民の多くは、必ずしも急進的な脱原発を志向しているわけではないだろう。電気が足りなくなることで「生活や経済に悪い影響が出るのでは」と心配している様子は、朝日新聞の世論調査からも浮かびあがる。
それでも、福島事故を目の当たりにした以上、原発はいったんゼロベースから考え直さなければならない。そう思うのは自然なことだ。
であれば、政治が取り組むべきことは明らかだった。
例えば、稼働から40年以上たつ美浜や敦賀といった老朽炉、巨大地震のリスクが高い浜岡をはじめとして、原発を減らしていく意思を明確に打ち出す。
使用済み核燃料や閉鎖した炉などの放射性廃棄物をどう処理していくか、本腰を入れて取り組む姿勢を示す。
原発の停止で電力が足りなくなるのを見越して、節電を組み込んだ電力調達市場を昨年のうちから整備することも、柱の一つだったはずだ。
しかし、野田政権は「脱原発依存」を掲げながら、規制当局の見直しをはじめ、何ひとつ現実を変えられていない。
再稼働についても、ストレステストをもとに形式的な手順さえ踏めば、最後は電力不足を理由に政治判断で納得を得られると踏んだ。
これで不信がぬぐい去れるわけがない。福島事故で覚醒した世論と、事故前と同じ発想で乗り切ろうとする政治との溝は極めて大きい。
むろん、政治への不信はいまに始まった話ではない。
政治への信頼度をテーマに、約140カ国を対象に実施された世論調査がある。経済協力開発機構(OECD)加盟国を中心にした37カ国では、日本は政府への信頼度が36位、国のリーダー層の能力評価は31位。ギリシャと同水準だ。
日本での調査は自公政権下の08年だった。だが、民主党に政権が代わって、何か変化があっただろうか。むしろ、原発をめぐる混迷は不信を決定的なものにしたのではないか。
■おまかせからの脱却
作家の高橋源一郎さんは、昨年8月25日付朝日新聞の「論壇時評」で、いまある制度の延長線上でしか語れない政治の貧困を指摘し、「この国で起こったことから、なにも学ばなかったのだろうか」と問うている。
いま、政治への国民のいら立ちをうまくすくいとっているのは、再稼働問題で政府を批判する橋下徹大阪市長なのだろう。
ただ、有権者が政治家個人の突破力に期待するばかりでは、行き詰まる。
原子力をどのように減らし、新たなエネルギー社会をどう構築するか。私たち自らが考え、合意形成をはからなければならない。それは、原発政策を国に「おまかせ」してきたことからの教訓でもある。
低線量被曝の問題も同様だ。除染や食品安全の基準では、放射線の影響をめぐって科学者のあいだでも意見が割れている。正しい答えのない問題だ。自分自身で学び、合理的だと思う考えを選びとるしかない。
とことん考え合うことのできる空間をどうつくり出すか。明日の社説では、それを論じる。
なにより大きかったのは、自分たちに都合の悪い情報は隠そうとしている、という疑念を広げたことだ。
その矛先は、被曝(ひばく)によって身体的な安全が脅かされるというリアルな危機感のなか、電力会社や政治のみならず、行政、科学者・専門家、財界、マスメディアと、既存の体制そのものへと増幅していった。
原発事故は、信頼を基盤とすべき社会を「不信の巣」へと変えたのだ。
ところが、既存の体制はその根深さをくみとれていない。
象徴が再稼働問題だ。
■ゼロベースで考える
国民の多くは、必ずしも急進的な脱原発を志向しているわけではないだろう。電気が足りなくなることで「生活や経済に悪い影響が出るのでは」と心配している様子は、朝日新聞の世論調査からも浮かびあがる。
それでも、福島事故を目の当たりにした以上、原発はいったんゼロベースから考え直さなければならない。そう思うのは自然なことだ。
であれば、政治が取り組むべきことは明らかだった。
例えば、稼働から40年以上たつ美浜や敦賀といった老朽炉、巨大地震のリスクが高い浜岡をはじめとして、原発を減らしていく意思を明確に打ち出す。
使用済み核燃料や閉鎖した炉などの放射性廃棄物をどう処理していくか、本腰を入れて取り組む姿勢を示す。
原発の停止で電力が足りなくなるのを見越して、節電を組み込んだ電力調達市場を昨年のうちから整備することも、柱の一つだったはずだ。
しかし、野田政権は「脱原発依存」を掲げながら、規制当局の見直しをはじめ、何ひとつ現実を変えられていない。
再稼働についても、ストレステストをもとに形式的な手順さえ踏めば、最後は電力不足を理由に政治判断で納得を得られると踏んだ。
これで不信がぬぐい去れるわけがない。福島事故で覚醒した世論と、事故前と同じ発想で乗り切ろうとする政治との溝は極めて大きい。
むろん、政治への不信はいまに始まった話ではない。
政治への信頼度をテーマに、約140カ国を対象に実施された世論調査がある。経済協力開発機構(OECD)加盟国を中心にした37カ国では、日本は政府への信頼度が36位、国のリーダー層の能力評価は31位。ギリシャと同水準だ。
日本での調査は自公政権下の08年だった。だが、民主党に政権が代わって、何か変化があっただろうか。むしろ、原発をめぐる混迷は不信を決定的なものにしたのではないか。
■おまかせからの脱却
作家の高橋源一郎さんは、昨年8月25日付朝日新聞の「論壇時評」で、いまある制度の延長線上でしか語れない政治の貧困を指摘し、「この国で起こったことから、なにも学ばなかったのだろうか」と問うている。
いま、政治への国民のいら立ちをうまくすくいとっているのは、再稼働問題で政府を批判する橋下徹大阪市長なのだろう。
ただ、有権者が政治家個人の突破力に期待するばかりでは、行き詰まる。
原子力をどのように減らし、新たなエネルギー社会をどう構築するか。私たち自らが考え、合意形成をはからなければならない。それは、原発政策を国に「おまかせ」してきたことからの教訓でもある。
低線量被曝の問題も同様だ。除染や食品安全の基準では、放射線の影響をめぐって科学者のあいだでも意見が割れている。正しい答えのない問題だ。自分自身で学び、合理的だと思う考えを選びとるしかない。
とことん考え合うことのできる空間をどうつくり出すか。明日の社説では、それを論じる。
2012年5月6日(日)付「原発ゼロ」社会:下 市民の熟議で信頼構築を 福島第一原発の事故をきっかけに、政治や行政、科学者などへの不信と疑念が広がった。
その連鎖を断ち切り、信頼を再構築するにはどうしたらいいのだろうか。
政府は新たな原発・エネルギー政策に向けた「国民的議論」を掲げる。関係する審議会や調査会で検討してきた選択肢を整理して、国民に提示する。夏までに今後の方向性について合意を目指す考えという。
ただ、議論の前提が整っているわけではない。政府の事故調査委員会の報告はまだだ。原子力規制庁(仮称)もできていない。原発の新しい安全基準作りはさらに先になる。この夏の電力需給や自然エネルギーの普及度合いも議論を左右する。
知恵を絞る必要がある。拙速にことを運べば、かえって不信を広げかねない。
■普通の人々が学ぶ
欧米では、科学者ら専門家への「信頼の危機」に見舞われた際、市民参加による熟議を通じて信頼の再生を図ってきた。
たとえば、英国は牛海綿状脳症(BSE)のヒトへの感染を否定した専門家の信頼が地に落ち、市民参加型の議論に本腰を入れた。遺伝子組み換え作物をめぐる議論にはネット経由を含め2万人が参加した。ナノテクノロジーの安全性でも、様々な議論の場が設けられた。
科学技術は暮らしを便利にするが、思わぬ副作用や危険性もある。公害や大事故などを経て、実用化の是非などに社会の意見を反映する流れが世界的に加速している。
一方、低下傾向にある民主政治への信認を補う目的でも、政策形成に市民が加わるさまざまな仕組みが考案されてきた。
原発・エネルギー政策は、この二つの流れが重なる最大級のテーマといえる。
日本の原発政策では住民の意見を聞く形をとりながら、実際は既定の方針を正当化する「名ばかり民主主義」が横行してきた。九州電力で発覚したやらせメールはその典型例だ。
これに対し、欧米での市民参加型では、無作為抽出などで数十人程度の「普通の人々」を選ぶのが一般的だ。いわば「社会の縮図」である。
参加者は基礎知識を学んだうえでじっくり考え、議論する。その結果を意見書やアンケートで集約し、行政や議会に尊重させるといった流れをとる。
議論が社会から信用されるための生命線は、独立、中立、そして透明性だ。
中立で独立した主催者のもとで、議論を誘導しないよう習熟したスタッフが進行役をつとめる。議事に協力する専門家が業界や行政とどんな関係にあるのかも明らかにする。
■補完としての「常識」
これらの方法は決して魔法の杖ではない。手間も金もかかるうえ、最終的な決定権はない。選挙で選ばれた議会に代わるわけではない。あくまで補完として、その時々の暫定的な市民社会の常識を示すにすぎない。
それでも、これまでのやり方の欠点を補う力はある。市民の良識や、譲れない信条の違いを「見える化」する。賛否両極に大きく割れる原発議論を乗り越えるには必要な機能だ。
熟議の成果を次世代へリレーするなら、「将来世代」の意思決定権を尊重する動機もはたらく。使用済み核燃料の処分など末代まで関わる問題に、ひとつの方法を示唆してもいよう。
さらに、各政党がさまざまな政策を掲げる選挙では個別政策で必ずしも最適の選択ができない、というジレンマを解きほぐすのにも有効だ。
かつて徳島市では吉野川の可動堰(ぜき)問題をめぐり、賛否から距離を置く市民が勉強会を数多く開き、その実績を踏まえて市が住民投票を行ったことがある。
国政でも、草の根の熟議を継続させ、数年間の実績を経てから国民投票にかける仕組みもありえよう。
政府が考える国民的議論も、中立的な担い手に運営を任せたうえで、もっと時間をかけ、議論を将来につなげるよう、工夫してはどうだろう。
政府としては脱原発依存の方針を早く具体化すべきだが、熟議型の議論を続けることは政策の定着や見直しに役立つ。
■国会で制度作りを
市民参加型の熟議を支えるうえで、大きな役割を果たしているのが議会(国会)だ。
日本でも福島事故では国会が調査委員会を設け、事実究明に力を注いでいる。ここは、民意の熟成にも目配りしてほしい。原発・エネルギーに限らず、税と社会保障改革など世代を超えた難題は目白押しである。
国会に事務局を置き、自ら熟議集会を主催したり、大学やNPOなど中立組織による開催を支援したりしてはどうか。
不信と混迷が深まると、強い指導者を求めがちだ。しかし、政策への市民の関与を強め、わがこととして解決する道こそが民主主義を深化させる。
引用ここまで
原文は、朝日新聞の社説
【「原発ゼロ」社会:上 不信の根を見つめ直せ】
http://www.asahi.com/paper/editorial20120505.html
【「原発ゼロ」社会:下 市民の熟議で信頼構築を】
http://www.asahi.com/paper/editorial20120506.html
です。
アクセスが急増したり万一記事削除されて読めなくなったときのため、ここにコピペ保存しています。
『ひなげし陽気』の中の「早く電力自由化を」
の参考記事にさせていただきました。